乳腺と向き合う日々に

遺伝性のがんという概念

がんは基本的にすべて遺伝子の異常によって引き起こされます。遺伝子は親から子供に引き継がれる体の設計図です。人に限らず生き物は全てもともと1個の卵細胞から、分裂して増殖した星の数ほどの細胞から構成されています。ですので、体を構成しているすべての細胞の中には同じ設計図が入っています。ただ設計図があっても、それを全て作るわけではありません。目なら目、足なら足、筋肉、血管、血液細胞など、それぞれがそれぞれの設計図を引っ張り出して都合よくパーツを作り出しているのです。

親から引き継がれた遺伝子の異常をかんがえましょう。ただここで注意してほしいのは、現在の科学では、遺伝子の個性がすなわち本当に”異常”と言い切っていいのかはまだわかりません。個性の範囲内かもしれません。われわれは黒髪ですが、金髪の遺伝子を持つ人もおられ、当然遺伝子が異なります。けれども金髪の遺伝子は、われわれと異なりますが、異常ではありませんよね。ただこれから触れていく遺伝子は、がんと関係が深いことがすでに証明されている遺伝子ですので、異常としているだけです。もしかするとそれはそうでも、引き換えに遺伝性のとても素晴らしいギフトがあるかもしれません。その意味からは異常という言葉を使うことは本来間違いともいえます。専門家はそういった理由から、異常と呼ばず、バリアントと呼びます。バリエーションの一つという意味です。難しい横文字をわざわざ使いますが、ご容赦ください。

遺伝子の中にBRCAと呼ばれるものがあります。この遺伝子はがんの遺伝子ではなく、がんを抑制する遺伝子です。ですのでバリアントがあれば、さまざまな臓器のがんになりやすくなります。体の細胞すべて同じ遺伝子ですので、BRCAの異常はすべての細胞で引き継がれています。そしてこの遺伝子のバリアントを有する方では乳がん、卵巣がん、男性では前立腺がんにかかりやすい傾向があります。BRCA遺伝子のバリアントを有して、乳がんや、卵巣がんに罹患することを、遺伝性乳がん卵巣がん症候群(HBOC)と呼びます。

BRCAの遺伝子にバリアントがあれば乳がんや、卵巣がんに罹患しやすいということは触れました。
逆に乳がんに罹患しやすい遺伝子のバリアントには、現在BRCA1、BRCA2に発生した変異で引き起こされるHBOCがその代表ですが、TP53の遺伝子変異から引き起こされるリー・フラウメニ症候群、PTEN変異から引き起こされるカウデン症候群、CDH1変異から引き起こされるものが知られています。

症候群の名前 変異がある遺伝子 どの臓器のがんになりやすいのか?

HBOC
=遺伝性乳がん卵巣がん症候群

BRCA1
BRCA2
乳がん、卵巣がん、前立腺がん、
膵臓がん、 黒色腫
リー・フラウメニ症候群 TP53 軟部組織肉腫、骨肉腫、脳腫瘍、
乳がん
カウデン症候群、 PTEN 乳がん、子宮体がん、甲状腺がん、
大腸が ん、腎細胞がん
CDH1 胃がん、乳がん

ここで勘違いしやすいのは、乳がんの大部分はこうした生来の遺伝子のバリアントから引き起こされるものではなく、いわば”事故”である、ということです。乳がん患者さん全体で見たとき、それがHBOCとして発生している確率は4%前後である、とされます。
お母さんが45歳の時に交通事故にあった。だから自分も45歳の時は交通事故に気を付けよう。この考え方がおかしいように、乳がんの95%はこの事故と同じです。
お母さんもおばあちゃんも二重瞼だった、だからきっと私の子供も私と同じ二重瞼だわ、ということと同じように乳がんに罹患してしまわれることが、乳がん患者さんの20人に一人の乳がんで起こっている、ということです。
そのことからわかるように、血のつながった人で乳がんの人は一人もいない、自分が血縁者の中で初めて乳がんに罹患された、それも80歳になってから罹患された方と、お母さんも40歳台で乳がん、おばあちゃんも40歳台で乳がんで、自分も40歳台の若くして乳がんに罹患した方を比べれば、そうした遺伝子のバリアントで乳がんになってしまった確率、つまりHBOCである確率は、後者ではるかに高くなります。
またHBOCでは、乳がんは自分しかいない、けれどもお父さんは膵がん、前立腺がん、そしてその父方おじいちゃんも膵がんだった、とすれば乳がんの血縁者がおられなくても、確率は高いと考えられます。
このように、血縁者でどのような臓器のがんの方がおられるか、またそれは何歳の時に発症されているか、を調べることで、こうした遺伝性の異常がある方かどうか、ある程度確率を推測、計算できるようになります。

HBOCである、つまり遺伝性の乳がんである可能性の高い方

下記の項目の中で1つでも当てはまる場合は、HBOCの可能性が 考慮されます。

BRCA1, BRCA2遺伝子の検査を受けて、陽性であることがわかっ ている方の血縁者

ご自身が乳がんであり、かつ以下のいずれかに該当 する
45歳以下で乳がんと診断された
 両側の乳がん(同時性あるいは異時性)と診断された
片方の乳房に複数回乳がん(原発性)を診断された

46~50歳で乳がんと診断されていて、家族歴が不明であったり、血縁者 の数が少ない方
あるいは乳がんの家族歴のある方、あるいは中等度以上 の悪性度の前立腺がんの家族歴のある方
60歳以下で、トリプルネガティブの乳がんと診断された

血縁者に卵巣がん、転移性の前立腺がん、膵臓がん、50歳以下の乳がんの いずれかの診断を受けた人が1人以上いる方

 血縁者に男性で乳がんと診断された方がいる

ご自身が男性で乳がんと診断された方
ご自身が卵巣がん・卵管がん・腹膜がんと診断された方
ご自身が膵臓がんと診断された方
ご自身が転移性の前立腺がんと診断された方

ちなみにここでいう血縁者とは父母、兄弟姉妹、異母・異父の兄弟姉妹、子ども、おい・めい、父方 あるいは母方のおじ・おば・祖父・祖母、大おじ・大おば、いとこ、孫などを含みます

そして2021年6月現在、ご自身がすでに乳がんに罹患されており、下記に該当する方では、希望すれば保険をつかって、ご自身がBRCA遺伝子のバリアントを有しているかどうかを調べることができます。
もちろん自費であれば、だれでも検査を受けることは原則として可能です。
検査は体のどこの細胞でも可能です。ただもしその材料に他人の遺伝子が混ざっていれば誤った診断になります。髪の毛だと理髪師の方の遺伝子がついているかもしれません。純粋な自己細胞のみを採取するため、血液を採取して遺伝子の検査は行われます。逆に検査に必要なのは血液だけです。

45歳以下で乳がんと診断された方

60歳以下でトリプルネガティブの乳がんと診断された方

両側の乳がんと診断された方
片方の乳房に複数回乳がん(原発性)を診断された方
男性で乳がんと診断された方
卵巣がん・卵管がん・腹膜がんと診断された方
腫瘍組織によるがん遺伝子パネル検査の結果、BRCA1、2遺伝子 の病的バリアント(異常)を生まれつき持っている可能性がある場合(これは血液検査ではなく、乳がん組織を調べたらBRCA遺伝子の異常が認められた方という意味です。生来の遺伝子異常は持たれていなくても、事故として発生した乳がん組織だけにおいてBRCAの遺伝子異常を有していることがあります)
ご自身が乳がんと診断され、血縁者(これは上記と同じです)に乳がんまたは卵巣がん 発症者がいる方
ご本人が乳がんと診断されたことがあり、かつ血縁者がすで にBRCA1、2遺伝子に病的バリアントを持っていることがわかっ ている場合 

こうして遺伝子検査を受けられ、BRCA1、あるいはBRCA2陽性と診断された場合、乳がんに罹患する確率は60歳までで5割、つまり約半分の方が乳がんに罹患され、さらに80歳までには7割の方が乳がんに罹患する確率があることがわかっています。

ただここまで読んでこられた方で、疑問に思われている方がおられるはずです。
もう乳がんに罹患したのだから、それから保険が通るからと言って、遺伝子を検査することに意味はあるのか?すでに乳がんに罹患して苦しんでいるのに、さらに遺伝的のバリアントがわかったところでさらに苦しむだけのことで、なにが得られるというのか?

それについて、とくにトリプルネガティブ乳がんと診断された方を中心に、いままさに利益がある方がおられることがわかっています。
またそうでなくても、わが国ではさまざまな保険診療のサポートを受けながら、これから起こり得る病気と向き合っていけるようになるメリットもおおく享受できます。
次回話をしていきたいと思います。

なおここまで読まれて興味がある方は、ぜひ日本遺伝性乳がん卵巣がん総合診療制度機構の提示しているパンフレット 「遺伝性乳がん卵巣がん症候群(HBOC)をご理解いただくために」もご参照ください。