乳腺と向き合う日々に

2022.07.01

スタンディングオベーション(ASCO 2022)

コロナの影響で医学集会や学会の多くが長らくオンラインのみの開催でした。
内容だけならオンラインでも勉強できるかもしれませんが、学会会場に行って実際に参加すると、会場全体の反応も体で感じられます。自分の専門分野以外の発表であっても、会場におられる世界第一線の先生方の反応をみていれば、それがどれくらいの意義のある発表なのか、自然とわかるものです。
今年は米国シカゴ、マクコーミック巨大会場で、かつまた医師が今まで通りに参加できる形で世界最大と言って過言ではないでしょう、がん治療の学会、米国臨床腫瘍学会(ASCO) 2022が開催されました。

乳がん領域ではDESTINY-BREAST 04という名前の臨床研究の成果が発表され、大変な話題になりました。これはHER2 Lowと呼ばれるがん細胞を持つ、再発乳がんに対する新しい知見です。再発乳癌の治療において新しい治療法が見つかりました。会場でスタンディングオベーション(みんなが席を立って拍手をする)を受けた、素晴らしい研究について少し触れてみたいと思います。

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この研究は”HER2”蛋白と呼ばれるがん細胞の表面に現れる特殊な蛋白に対する治療法についてのものです。がん細胞はもともとは自身の細胞であり、遺伝子的には皆さんの正常な体細胞と同じものです。ただある特定の遺伝子にエラーが生じることによって、無限に増殖したり、他の臓器に転移できるようになったりする変化を起こします。
そしてそのエラーによっては、細胞表面に特殊な蛋白が過剰に表れて、それが刺激を受けることによってなおさら勢いをつけて増殖する、ということが起こることがあります。HER2蛋白は代表的なその一つです。

これに対して、最初に治療薬として開発されたのがハーセプチン®(トラスツズマブ)でした。
この薬剤は細胞表面に異常に表れたHER2蛋白を標的として妨害し、増殖を抑えることができます。そして正常な細胞は基本このHER2蛋白をあまり出していないので、ハーセプチンの影響を受けにくく、そのため副作用が少ない、という画期的なことが起こりました。分子標的薬剤、今までは毒をもって毒を制す、のような抗がん剤から、ある特定の分子の標的を”狙って”薬剤を開発し、がんを抑えることに成功した最初の”大”成功例と言ってもいいかもしれません。
ハーセプチンの大成功はこれまでの治療法を完全に置き換えてしまいました。副作用が少なく、そして劇的に効くのですから、治療の”第一選択”、標準(当たり前に行われるべき)治療となったのです。

ただその理屈からわかられると思いますが、ハーセプチンは劇的な効果をもたらしますが、それはあくまでHER2蛋白を表面に出し、それを利用しているがん細胞だけです。HER2蛋白を利用しないがん細胞もいるのです。その場合はほぼ何の効果もありません。念のためHER2を持たないがんにもハーセプチンを試してみた研究も多くなされましたが、予想通りの失敗に終わりました。

HER2を持っている、持っていない、という観点からがん細胞を調べてみたとき、本来 白黒だけでいいはずですが、段階的に判断されます。
HER2は 0 1+ 2+ 3+と4段階に評価されます。原則3+がHER2陽性なのですが、2+であった場合、念のため遺伝子レベルまで調査(Fish検査)され、2+(Fish-)、2+(Fish+)に分類されます。このFish+はHER2陽性です。HER2 3+、そしてHER2 2+(Fish+)についてはこれまでにさまざまな薬、投与方法が開発され、今では大変予後も改善し、”薬で治せるがん”も視野に入ってきています。手術せずとも抗がん剤だけで消えてしまう可能性がもはや目の前といった段階です。

この抗がん剤でがんが治せる、ということは実は治る治らない以上に意味があります。
なぜか。薬でがんが治せるようになれば、基本的に早期がん、末期がんという概念がなくなるのです。早期がんとは、手術によって取り切れてしまえる可能性があるがんです。目に見える腫瘍を全て切除しても、目に見えない転移が残っている可能性が高いもの、それが進行がんです。明らかに手術でとり切れないものそれが末期がんです。したがって手術しないのであれば、早期、末期はありません。効く、効かないがあるだけです。その意味からは検診を受けておらず、ほぼ末期発見されたとしても、そこから問題なく治せるのであれば検診すら要らなくなります。それだけ概念から変わってしまうのです。
ただいまはすべてのHER2陽性乳がんが薬で消えるのではなく、またHER2陽性乳がんは全体の2割程度しかおられません。早期発見と、そのための検診の重要性は変わりません。

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さて、そこまですごいHER2蛋白と、それに対する分子標的薬剤なのですが、HER2蛋白は乳がんにおいて、だいたい15-20%前後しか陽性ではありません。そしてHER2 0+もまた20%強なのです。

だいたい乳がん患者さんの50%強が、陽性でもないが、陰性でもない、HER2 1+、HER2 2+(Fish-)に分類されます。
この方たちがHER2 Lowとされた方たちです。完全な陰性ではないが、いままでのHER2に対する分子標的薬剤によるHER2を標的とする治療では効果が認められなかった、つまり”ほぼ”陰性の方たち。

今回 DESTINY-BREAST 04はこの方たちHER2 Low症例の”再発”乳癌治療にスポットを当てました。

使われた薬剤はTrastuzumab deruxtecan (T-DXd) エンハーツ®と呼ばれる薬剤です。
HER2蛋白にくっつく部分と、トポイソメラーゼ1阻害剤という抗がん剤を、化学的に結合させた薬剤です。これによって細胞表面にHER2蛋白を出しているがん細胞に選択的に抗がん剤を”届けて”やることができます。

HER2Lowであり、乳癌が再発され、ホルモン剤が効く方はそれをすでに行い、そしてホルモン剤が効かない方であってもすでに1-2パターンの抗がん剤投与がなされて効果が期待できなくなっている方を対象として、ランダム化し、一方の群ではT-Dxdを投与、もう片方では主治医の治療方針に任せる、という臨床試験が行われました。下の図を参照してください。

結果は上の図で示されました。 

全体の患者さんで、がんが再び増悪するまでの期間をほぼ倍(5.1から9.9カ月へ)に延長しました。
ホルモンレセプター陽性の患者さんでも5.4から10.1カ月に延長しました。
すでに様々な治療を試みられている患者さんをターゲットとしていて、このデータは画期的なものです。ハザード比と呼ばれるものがあります。患者さんによくないことが起こる確率と考えてくださればいいのですが、通常新しい治療法が開発された際に、今までの標準治療と比較して0.7、つまり3割悪いことを減らせれば素晴らしい成果とされるのですが、これがホルモンレセプター陽性の方で0.51、全体で0.50でした。つまり悪いこと、この場合再発したがんの進行が半分まで抑えられたということになります。

会場でのどよめきが目に浮かぶようです。私もその場に居合わせていたら拍手したでしょう。
新しい考え方、新しい治療の誕生の瞬間です。HER2 Lowは、決して=陰性ではなかったのです。
これだけ劇的に効けば、HER2Lowの方が再発した際には第一選択、つまり標準治療になる可能性があります。そして今までの分子標的薬剤の素晴らしい成果を考えたとき、もしかすると再発した乳がんも治せる可能性があるかもしれない、誰しも期待するのではないでしょうか。

副作用も比較されていますが、対象群が主治医選択薬剤なのでバラバラになっており、あまり参考になりません。ただ結局は対象群も抗がん剤を投与されているため、比較すればそれほど強い副作用もありませんでした。発表からは、T-DXdは嘔気が強い薬剤なのだな、という印象を持ちました。

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おそらくこれを受けて間違いなく、HER2 Lowの患者さんへの考え方は変わります。
今回の発表の意味は決してT-DXdの新しい使い方が分かったことだけにとどまりません。
「HER2 Lowは=陰性ではないのだ」ということが証明されたことが大きいのです。HER2がわずかでも表れていたら治療法の選択肢として、抗HER2薬剤を検討するべきだ、ということが分かったのです。このことがなんといっても画期的なのです。HER2 Lowとされていた患者さんのがん細胞は、実はHER2の経路を使って増殖していた、ということが証明されたとも言えます。

HER2への治療はすでに乳がん以外にも広く広がっています。乳がん以外のがんは乳がんほど強くHER2を表出しないことが多い。ということは・・・などなど。

今後の発展次第によっては多くの患者さんに福音となる可能性があります。楽しみです。

Dr. Shanu Modi: DESTINY-Breast04 Establishes Trastuzumab Deruxtecan As a New Standard of Care for HER2-Low Metastatic Breast Cancer. 2022 ASCO ANNUAL MEETING, June 6, 2022. https://dailynews.ascopubs.org/do/10.1200/ADN.22.201047/full/?cid=DM10847&bid=180009772